第12回 介護作文・フォトコンテスト 受賞作品第12回 介護作文・フォトコンテスト 受賞作品

  • 作文・エッセイ部門

    【一般部門】

    【学生部門】

    一般部門

    「母と娘」時間を越えて

    (大分県 羽田 正司さん)

     「あのね、昔母に言った言葉で、悔やまれて仕方がないことがあるの。」あなたは左手を僕の肘に添え、決して上手とは言えないガイド歩行に文句も言わず、青空の下でこう切り出しました。

     二歳の時に病で視力を失っても尚、強く、優しく、しなやかさを持って生きてきたあなた。八〇才に手が届こうという今でも、パソコンに音楽にと挑戦しているあなたの、意外な一言に思わず足が止まりそうでした。

     尋ねる僕にあなたは、二十代の若かりし頃の苦い思い出を語ってくれました。

     「今日はT子の誕生日やからご馳走をしようか。」明るく振る舞う母親にあなたが返した言葉は、「目が見えんのに、誕生日なんか目出度くもないわ。」という言葉でした。若かったあなたの悔しい思い。親だからこそぶつけられる本当の気持ち。あなたが何気なく話してくれた数十年前の母と娘の会話を知り、目の前にいる、いつも明るくプラス思考のあなたが、今日まで乗り越えてきた時間の重さに気づかされました。

     そして、心ならずも発してしまったあなたの言葉を、受け止めざるを得なかったあなたのお母さんもまた、娘とは違う立場で、数々のことを乗り越えられたに違いありません。

     やり場のない娘の苦しみと、それが痛いほど分かる親の悲しみ。母と娘が向き合ってきた葛藤の深さに立ちすくむ思いでした。

     あれから何十年。長く一人で生きてきたあなたが、盲人専門の老人ホームに入所されて、やがて二年が経とうとしています。

     賢さと優しさと、強さを兼ね備えたあなたが、ふと漏らした遠い昔の母と娘の会話、なぜか忘れることができません。

     昔誰かに、「強い人ほど優しくなれる。優しい人こそ強くなれる。」という言葉を教えられたことがあります。「今」を生きる光を失った入所者の方々の優しさや強さに触れるにつけ、それぞれに何かを諦め、周囲の言葉に傷つき、或いは救われ、誰かを大切に思い、また大切に思われ、決して平たんとは言えない道のりの上に今があることを感じます。

     私たち福祉の現場に生きる人間は、「アセスメント」という言葉を時々口にします。もちろん大切なことだし、本人への理解無くしては支援も介護も成り立ちません。

     でも、あの時あなたが話してくれた後悔の思いと、今だからこそ言える、母と娘の辛い思い出。それを思うと、「あなた、いったい何を知っているの?」と言われそうです。

     実は僕も、悔やまれる言葉を過去に数多く発してきました。若かったとは言え、時計の針を戻したいと思うこともありました。

     「あの時、素直に有難うと言えば良かった。」散歩の道すがら話してくれたあなたの思いは、きっと、空の上で見守っているお母さんにも届いたことと思います。

    19歳の介護福祉士の思うこと

    (石川県 高田 沙雪さん)

     私に介護福祉士という夢を持たせてくれたのはひいばあちゃん。“最期は何食べたい?”と聞かれ大好物だった豆パンを食べて亡くなったね。天国で私の頑張る姿、見てますか?と、毎年仏壇に手を合わせて、もう8年。ひいばあちゃんのおかげで、なりたい夢に向かって福祉の専門高校に進み、無事国家試験に合格して夢だった介護福祉士になれた2019年の春。そして働き始めて5カ月。たった5カ月の間に沢山の出会いと別れ、喜怒哀楽がありました。介護と聞けば大変だとかマイナスなイメージを持っている人も少なくありません。自分の身を犠牲にしてまで、他人に迷惑をかけたくないと無理して介護をしている話も聞きました。でも介護にはそれを上回るものが、いっぱいいっぱいあるんです。ちょっと口紅をつけると、女優のようにポーズを決める利用者さん、カンカンに怒っていたのに、5分経つとケロッと笑っている利用者さん、外に散歩に出ると笑いが止まらなくなる利用者さん、そんな利用者さんを見ていると、心から楽しく嬉しい気持ちになります。悲しいことももちろんありました。あれは私が働き始めて2ヶ月くらいでした。ひとりの頑固おばあちゃん。私が話しかけても返ってくる言葉はするどくてちょっと痛い言葉でした。ある日、たわいもない話をして「また後で来るね」と私が言うと、いつも通りの話し方で呆れたように「あんたの後では明日や」と笑って言いました。その時、私に初めて見せてくれた笑顔でした。嬉しくなった私はハイタッチをして家に帰りました。明日もまた笑ってくれるかな、と心をウキウキさせ仕事に行くと、おばあちゃんの部屋は空き部屋になっていました。頭が真っ白になりました。明日が来ない日が本当にあるなんてその時初めて実感しました。それから私は、利用者さんの残された人生ではなく、今あるこれからの人生を私の存在がどれだけ相手にとって豊かな存在になるかが、人生の質を高めていくのだと思いました。日々の中でたくさんの生きてきた軌跡や、人生観を学べ教えていただくことがあります。介護という2文字の言葉はとっても深くて、やりがいを感じる仕事です。介護ロボットの普及で身体的負担の軽減が図られましたが、介護はこころ対こころの仕事。コンピュータでは創り出せない生活の豊かさを創り出すのが利用者さん本人であり支えていくのが私たち介護福祉士であること。私は介護を通して見方が変わり、視野が広がり、自分になかったものを毎日見つけることができています。私が嬉しい、楽しいと感じるとき、それは介護をしているときです。だから、この感謝を私は毎日、声に出して届けています。『ありがとう』という思いを満面の笑みとともに。そして、最期の時に、頭の片隅に少しでも記憶に残れる介護福祉士であるために、今日も。明日も。全力介護です!

    ええもんおくれ。

    (山口県 福井 亨さん)

    もう10年以上前のことである。
    私の結婚式当日の出来事。
    5月のある晴れた日。
    緊張と喜びの中粛々と式は進み、私たちは教会から外に出た。
    青い空と緑の芝が眩しく私の目に飛び込んできた。
    「おめでとう!」
    家族、友人、職場の同僚たちからのお祝いの言葉。
    そのまま写真撮影の時間になり、祝福の言葉と共に友人、同僚たちが順番にシャッターを切る。すると、

    「……るさーん!」

    「…おるさーん!」

    遠くの方から聞き覚えのある声が聞こえてきた。

    ん?この声、職場で仲良くさせて頂いていた100歳のおばあちゃんの声?

    いや、まさか!こんな日にまでおばあちゃんの声が聞こえてくるなんて…
    空耳かな。

    と思っていたら、遠くの方から車椅子に乗ったおばあちゃんの姿が。

    「とおるさん、おめでとう」

    綺麗におめかししたおばあちゃんからお祝いの花束を貰った。

    まさかのサプライズ演出に結婚式序盤で涙がこぼれた。

    もちろん嬉し涙。

    後から聞くと式当日の何日も前から妻と同僚たちが計画を立て、100歳のおばあちゃん本人やご家族から許可をもらい、式場のスタッフとも打ち合わせを行って当日を迎えたそう。



    ご家族は「100歳で結婚式に出られることなんて滅多にないことですから」と快諾されたとのこと。
    少し足が悪く、いつも部屋から這って出てこられては私の名前を大声で呼び、
    「とおるさーん!」
    「なんですか?」
    「とおるさん、ええもんおくれ」
    これが二人の定番のやり取りだった。
    他にも色々お話したが、認知症ということもありそんなにきちんとした会話はしていない。
    けれど、たくさんいる介護員の中から私の名前を覚えてくれて、いつも大きな声で呼んでくれるおばあちゃんが大好きだった。
    人生の晴れ舞台の日に大好きな100歳のおばあちゃんに祝ってもらって、一生忘れられない日となった。
    半年後おばあちゃんは病院にいた。
    体調を崩して入院し、もう声も出ない、ご飯もあまり食べられなくなったと聞いた。
    休日にお見舞いに行った。
    久しぶりに会うおばあちゃんの頬はこけ、酸素チューブを付け、目は閉じたままだった。
    病院の看護師さんからも「入院した直後は少しお話されていましたが、今は会話も食事もほとんどできないです。」と言われた。
    私はおばあちゃんの耳元へ話しかけた。

    「トジさん、来たよ」

    すると目をパチリと開け

    「とおるさん、ええもん…」

    隣にいた看護師さんもびっくりしていた。
    それ以上の会話はできなかったが、その一言で十分だった。
    よく「心が通じる」と言うがまさにそれである。
    それから何日かして大好きなおばあちゃんは天国へと旅立った。
    特養での介護の仕事に就いて18年。
    色々なことがあったし、たくさんの方との出会いと別れがあった。
    そんな中このエピソードを事あるごとに思い出す。
    そしてこれからも絶対忘れない。
    職場の後輩や地域の子供たち、色々な人たちに「介護」の仕事をしていたら
    こんなに素敵な出来事もあるんだよと伝えて行きたい。

    「夕立雨とアメリカンドッグ」

    (兵庫県 中島 圭佑さん)

     祖母の「想い」を胸に、私は今日も仕事に向かう。

     私が高校生の時、祖母が認知症と診断された。主婦として家族を支えてくれていたが、祖父を亡くしてから変化が起きた。物忘れが増え、トイレの失敗も多くなった。芸達者で日舞に励んでいたが、徐々に外にも出なくなった。

     私は夏休みに入り、両親は仕事の為、祖母と過ごす時間が増えた。おばあちゃん子であった私は認知症には無知だったが、いつも通り祖母と接した。同じ事を話せばそれを正し、トイレで失敗した跡を見つければ気付かれないように掃除をした。

     そんな祖母が私を喜ばせようと一日に何度も食べ物を買うようになった。私はやめるように話したが、祖母はその度に「ごめんね。すぐ忘れちゃうの。」と悲しそうに言った。しかし、買い物は続き、中でも私が好んで食べたアメリカンドッグを何度も買いに出た。私は受験勉強が忙しく、イライラが募り、いつも通りアメリカンドッグを渡してきた祖母に「毎日やめろよ!」と言ってしまった。祖母は「ごめんね。」と言い、外に飛び出した。

     程なく雨が降ってきた。私は後悔した。「おばあちゃんは私を喜ばせようと、一生懸命考えた。何でも忘れてしまうけど、私がアメリカンドッグを食べて喜ぶ姿だけは忘れずに思い出した。」と。祖母を探そうと靴を履いた瞬間、ドアが開いた。祖母はずぶ濡れになりながら満面の笑みで袋からアメリカンドッグを取り出し私に渡した。「これ好きでしょ。おばあちゃん、これくらいしかできなくなっちゃったから。」そう言って私の頭を撫でた。私は涙を堪え、おいしいと言って頬張りながらタオルで祖母の頭を拭いた。祖母は私の手をずっと握っていた。その手は震えていた。「あー温かい手、優しい子だね。」と祖母は話し、私は「それは世界一優しいおばあちゃんの孫だから。」と言い二人で笑った。

     その後地元を離れた為、祖母に会う機会は減った。祖母は特養に入所し、その頃には認知症も進行し、車椅子生活になっていた。祖母を気にかけながらも会いに行けず年月が経ったある日、親から「おばあちゃん長くないって。」と連絡が入り、私は急いで面会に行った。

     私は、悲しいという感情を抑えながら、祖母のために出来る事を考えた。介護職として身に付けた技術で、身体を拭き、爪を切り、手を握り話しかけた。祖母は何も話さなかったが、表情で答えてくれた。介護の仕事を勧めてくれたのも祖母であり、「その温かい手で沢山の人を助けてあげてね。」という一言がきっかけだった。

     それから数日後、祖母は旅立った。
     私はありがとうと言って抱きしめた。

     介護は「思い」と「想い」の繋がりで成立すると私は思う。思いは人の心に寄り添う事、想いは人の記憶に残り支えになる事。私はそれらを繋げる事で人生に彩を生むことができると思う。私はこれからもこの信条を大切に仕事に向き合い、多くの人を幸せにしたい。今を生きる瞬間を共にできる事を幸せに思いながら。

    抱えない勇気

    (東京都 ままおっちさん)

    「ママのママだから、私も面倒見たい。お手伝いしたい。一緒に頑張りたいよ!」
    私は3歳の娘のこの言葉に救われて、この言葉に甘えて現在に至る。

    40歳を過ぎて子宝に恵まれ、近くに住む両親の協力を得て仕事を続ける決心をした。ところが、大きなお腹を抱えて産休に入った頃に母がアルツハイマー病を発症。私は家事・育児・仕事、さらに介護まで抱えることになった。母は記憶障害が酷く、老々介護の父と私は物盗られ妄想に苦しめられる日々が続いた。それが要因となったかはわからないが、生まれた娘が2歳になる直前、元気だった父は呆気なく逝ってしまった。

    母には糖尿病の持病があった。記憶障害で食事の回数が増えるのは致命的で、インスリンの注射や服薬管理のために朝晩の実家通いは欠かせない。夜8時には寝かせるべき幼児がいながら、我が家の夕食は9時を過ぎていた。娘に辛い顔だけは見せまいと必死だったが、バレバレのひきつった笑顔の時もあったのだろう。意に反して娘は心を痛め、家族の一員として私を心配してくれていた。

    ある夜、唐突に放たれた冒頭の言葉。溢れ出す涙を止めることもできず、娘を抱きしめて思いっきり泣いた。母のせいで家族が傷つくのを怖れ、一人で抱え込んで潰れそうになっていたのだ。その日から、介護は家族3人の仕事になった。母を病院に連れて行く日、私は会社を、娘は保育園を休む。病院のロビーで、小さな孫がおばあちゃんに絵本を読んであげる姿は人目を引き、声をかけられると母も嬉しそうだった。出掛ける時に手をつなぎ、電車のICカードを持つのも娘の役割。ばあばのカードを預かっていてほしいこと、改札でタッチするということも丁寧に教えた。
    「大丈夫、できるよ。私に任せて!」
    と、娘が得意げに顎を上げる。私は私で、母の介護を通して成長する娘を誇らしく感じていた。心が軽くなったのは間違いない。この忙しい生活は、約5年続いた。

    現在、娘は中学生になり、母はグループホームで生活している。孫どころか自分に娘がいたことさえ忘れてしまった。一緒にできるのは、童謡を歌うことくらいだろうか。これもまた、悲しい現実である。かつての私は、娘に悲しい想いや我慢をさせまい、負担をかけまいと思うあまりに自分自身を追いつめていた。でも、それは間違っていたのだ。介護は、家族の絆を深めてくれるもの。悲しい現実を受け入れ、手を取り合って困難を乗り越えることで、それぞれが成長できるのだと思う。
    私たちは今日も、楽しさも辛さも分け合って過ごしている。親から子へ、子から孫へ、想いの『順送り』。これからも大切にしたい。

    未来

    (栃木県 須藤 善広さん)

     「ここに、家族の方の名前を書いてもらえますか?」

     私たちの特別養護老人ホームでは、数年前から入居されている皆様が、よくご家族の名前を書いている。
    その目的は、機能訓練という訳ではなく、ご家族が面会に来られた時に名前を呼んでほしい。ずっと家族の名前を忘れないでもらいたい。私たちのそんな願いからだった。

     敬老会が近づいてきたある日、ご入居者の中で最高齢、百歳のご入居者をお祝いすることになり、その方の紹介VTRを作ろう。ということになった。
    その方は病気の後遺症もあって、自分の気持ちを声に出すことは難しかった。そこでご家族の知らない普段の生活の一コマとして、いつも頑張られている文字書きの様子を紹介することになった。
    その担当に選ばれたのは入職して三カ月の女性新人介護職員さん。新人といっても年齢は二十代だったが別な介護施設で、十年近くの介護経験があった。
    ただ、その職員さんから一週間ほど前に、離職希望がでていた。その理由を尋ねると
    「どこに行っても自分の理想とする介護、本当にしたい介護が出来ないことが分かったから。」ということだった。
    「それはどうして?職員の人数?業務の負担?周りの職員さんとの人間関係?」幾つか質問してみたが、何も言わなかった。

     その職員さんは敬老会の担当に選ばれてから時間をみつけてはご入居者と名前を書く練習をしていた。文字を書く時に、漢字でもなく、ひらがなでもなくカタカナで書かれるご入居者。敬老会の1週間ほど前だったか、いつものように私もカメラを回し、ご入居者が書かれる様子を撮っていると、その日は自分の名前でもなくご家族でもない文字を初めて書かれた。
    そこには、「ミライ」と書かれていて、私が?という顔をしていると目の前の新人職員さんを指さした。すると、職員さんが両手で顔を覆って泣いていた。

     私たちの特養では、入職後三カ月だけ、皆さんに顔を覚えていただけるように胸に名札を付ける。その職員さんの名札は漢字で書かれていた。名前は「未来」と書いて「みく」 と読む。敬老会当日、紹介VTRはその場面に変更した。

     介護職員それぞれに志がある。介護施設の中であっても、輝く瞬間はある。それでもお年寄りが大好きな職員さんが離職してしまうこともある。私はミライと名前を書いてくれたご入居者に聞いてみた。「未来を輝かせるために一番大切なのは何だと思いますか?」するとこう書いてくれた。

     「キボウ」

    皆さんの希望を探していく介護の仕事に就いていることに少し胸を張れる気がした。

    学生部門

    叶わなかった約束・これから叶える約束

    (東京都 小川 貴史さん)

     祖父とは生まれた時から同居していたが関わりが浅く、家族らしい温かな関係は築けていなかった。別に祖父のことを嫌いではなかったが、どこか壁を感じていた。
     私は大学で福祉を学んでいる。1年生の夏、祖父が自転車から転倒し、骨折したことをきっかけに寝たきりになった。

     月日は流れて1月。在宅介護から、体調悪化のため祖父は病院に入院していた。私は大学のテストが始まる前に、病院にお見舞いに行った。久しぶりに見る祖父は、弱々しく苦しそうに呼吸をしていた。私が話しかけても返答することは出来ない。今まで、2人きりで会話をしたことはほとんどなく、何を話したら良いかわからなかった。話題に困りつつも、大学のテストのこと、家のことを話した。冗談交じりの話を私がすると、祖父が笑っているように見えた。「テストが終わったら、また見舞いに来るよ。」と一方的な約束をし、病院を後にした。

     家に帰ると父が居て、話してくれた。祖父が入院して、まだ元気だったころ「たかしは元気か?」と父に言ったそうである。私は祖父の中に私という存在があり、自分が大変な時に私を気にかけてくれていたことに驚いた。

     初めてのお見舞いから10日後、無事にテストを終えた私は大学から直接、祖父のお見舞いに行った。しかし、1月下旬ということもありインフルエンザ警戒のため、面会全面禁止となり、入院費だけ払い病院を後にした。長期休みが始まり、今まで以上にお見舞いに行けるだろうと軽い気持ちで家に帰った。

     その日の夜中、家の電話が鳴り一番近かった私が電話に出た。祖父の入院している病院からだった。父に代わるよう言われ、数分後に父から「もう最期の時だ」と言われた。

     病院に着いた時には、祖父の心臓は止まっており、個室で少しだけ家族だけの時間を過ごした。父と祖母が「ありがとう、よくがんばったね」と声を掛ける姿を目にし、たまらない気持になった。私が「お疲れ様、約束守れなくてごめん」と言うと父が「じいちゃんは、テストが終わるまで待っててくれたんだ。今日会えなかったけど、たかしが来たのはわかってると思う。」と言ってくれた。私が一方的だと思っていた約束は、祖父との間でしっかり結ばれており、約束を守るために祖父はテストが終わる最終日まで、頑張って生きてくれていたように思えた。

     亡くなってから気付いた。私は祖父についてあまりにも知らな過ぎた。祖父の好きな食べ物、趣味、若い時の話、祖父の人となりというものを私は全然知らなかった。

     大学4年生になった今、第一志望の高齢者施設の内定を貰った。今となっては、祖父が本当の意味でどんな人だったかはわからない。だからこそ、祖父が気付かせてくれたことを胸に刻んだ。「俺は、これから出会う多くの人に寄り添って、その人の人となりを知って、最期の時までその人らしく生きれるように支援できる介護福祉士になるよ、じいちゃん。」と墓石に向かい新たな約束をした。

    私と祖母の日常生活

    (兵庫県 西村 七海さん)

     私の祖母は進行性の難病を抱えている。今は、食事や入浴、排泄など全てを自分でこなしている。二世帯住宅で暮らしているため、すぐに会える環境である。

     「七海が手を差し伸べてくれたら歩きやすいよ。」ある日、歩きづらそうにしている祖母に手を差し伸べたとき、言われた一言だった。その一言が心の底から嬉しくてもっと祖母の力になりたい、支えたいと思ったのが私が介護福祉士になりたいと思った理由の一つだ。

     私の母と出かけるときは杖を必ず持つ祖母。でも、私と一緒に出かけるときは「七海がおるなら杖いらないね。」と玄関に置いていく。「とても歩きやすいよ。」と言って微笑みながら腕を持ってくれる。

     夕方なかなか薬が効かないときに雨戸閉めや夕刊取りを手伝う。祖母は「薬が効かなくて…ごめんね。」と謝る。気持ちが落ち込んでいるときは、長生きなんてしたくないと言われたこともある。「私が介護福祉士になるまで生きててもらわないと、なった意味ないからね。」と言うと、「楽しみに待つね。」と無理矢理笑おうとする。そんな祖母の姿に胸が苦しくなる。辛いこともある。私が祖母に代わってパーキンソン病になることは出来ない。祖母の気持ちを考えようと思いながら、接することが出来ても祖母の心の思いは分からないかもしれない。その心の声を読み取って理解しあい、今日も頑張ろう、明日も頑張ろうと祖母が思ってくれたら私はそれで良いと思う。

     薬が効いているときと効いていないときで、意欲であったり、会話の弾み、体調が変わってくる。薬が効いているときは特に、祖母が出来ることは全て自分で行なってもらう。これからもずっと元気でいてもらうために、今ある力をしっかり鍛えてほしい。介護について知らない家族は、どんなときでも手を差し伸べようとしてしまう。でも私は、「だめ!自分でやってもらって。」と言う。まるで私が家族の指導者みたい。

     病気の影響で振戦がある祖母。朝、家を出るとき、玄関にて手を振ってくれる。「いってらっしゃい、気をつけて。」その言葉を言われるだけで、私は温かい気持ちになる。今日も頑張らないとと思わせてくれる日常である。

     祖母にとって一番信頼度のある家族であり、孫でありたい。いつまでも「七海が一番。」そう言ってほしい。私は愛される介護福祉士になる。おばあちゃん長生きしようね。私が介護福祉士になるまで待っててね。

    聞こえなかった大切な言葉

    (愛知県 森 朋枝さん)

     私の夫と犬のピースケは、サッカーが大好きだ。2011年、ピースケが11歳の冬。アジアカップの決勝で、李忠成が見事なボレーシュートを決め日本を優勝に導いた。夫は歓喜して、空き地で何度もその真似をした。ピースケは力強く蹴られたボールを、大はしゃぎで追いかけた。そんな風に私たちは毎週末を過ごしていた。

     その数ヶ月後、東日本大震災が起こった。仕事中だった夫は、すぐさま私とピースケのところに飛んできた。彼は、これからずっと私たちを守ってくれるのだと思った。

     その年末、夫はささいな不調から病院へ行き、いくつもの検査の結果、医師から耳慣れぬ病名を告げられた。そして彼は、サッカーをすることができなくなった。そのとき私は、守られる側から、守る側になろうと決めた。

     3年後の2014年、ピースケ14歳の誕生日に私たちは入籍をし、ささやかな結婚式を挙げた。杖をついた夫に、彼の所属していたサッカーチームの仲間たちはこう言ってくれた。

    「待っているから。」

     私たちは、いくつもの病院を巡り、難病のセミナーにも参加した。

    「ピーちゃん、もう少し待っていてね。」

    夫はよく、そうピースケに話しかけた。その頃にはもう、夫はピースケの頭を撫でることもできなくなっていて、ピースケは、小首をかしげて夫の言葉を聞いていた。

     ピースケが16歳になった頃、夫は車いす生活になり、苛立ちを私にぶつけるようになった。その頃ピースケは認知症を発症し、唸り声をあげては私に噛みついた。家じゅうにまき散らされた糞尿の中、私は疲れ切って無気力になっていた。そんな私たちを、ピースケは白く濁った瞳で見ていた。

     2017年の年末、17歳でピースケは死んだ。逝く間際に、泣きながら抱き寄せる私の手を強く噛んだ。血が滴るほどの強さだった。

     私が夫とピースケを守ることができなかったから。不甲斐無い私を憎んでいたのだと感じた。夫は私を責めると思った。しかし夫はこう言った。

    「キスマークじゃない?僕を忘れないで、今までありがとうって。そう言いたくて、噛みついたんだよ。ピーちゃんは昔から素直じゃなかったからね。」

     私はふと、夫がピースケによく言っていた言葉を思い出した。

    「僕たちは似た者同士だね。」

     私はとても可笑しくなり、それを見た夫も笑った。ピースケを見送った数ヶ月後、私は介護の学校に入学した。

     学校の先生が繰り返し言うことがある。

    『死にたい』は『生きたい』

    大切な言葉の多くは、聞こえない。私はピースケにそれを気づかされた。そして、聞こえない大切な言葉を聞くことのできる介護福祉士になりたいと思い、日々勉強を続けている。

    できたらいいな

    (埼玉県 ラブとピースはご一緒にさん)

    令和になって初めての夏。

    僕がアルバイトをしているデイサービスで、総勢30名もの大規模な夏祭りが開催されました。一見施設には良くあるイベントに思えます。しかし僕にとって夏祭りは、ある理由から絶対に実現したいとても大切なものでした…。

    時は一年前の5月までさかのぼります__

    僕は家から近いという安易な理由で、介護アルバイトを始めました。しかし、介護も家事も未経験の僕には難しい仕事が多く、大苦戦。

    「急いで!」「しっかりしてよ!」

    そんな言葉を何度もかけられ、早く辞めてやろう…と思う大変な日々。

    ただそんな中でも辞めなかった唯一の理由が、ある94歳のおばあちゃんの存在です。そのおばあちゃんは昔先生をされていた方で、悩んだ顔をするとすぐ「大丈夫かい?」と声をかけてくれる優しい性格でした。

    そして時は経ち、ある夏の日__

    その方のトイレ介助をしていると、こんなことを仰られました。

    「夏だね〜。何か夏っぽいことできたらいいんだけど…」

    普段自分の意見を言わない方だったので、僕はもの珍しく感じ、「良いね!夏祭りとかしようよ!」と気軽に答えました。すると「夏祭り良いわね〜」と笑顔で返されたので、これは実現したいなぁ…と頭の片隅に入れ、その場は和やかに終了しました。

    しかし、その後は忙しさから夏祭りのこともスッカリ忘れ、気付いたら9月になってしまいました。そして9月の中盤、そのおばあちゃんが亡くなったのです。原因は肺炎でした。

    「え?いきなり?」と思われたでしょうが、実際それくらい急な出来事でした。ほんの1週間前まで笑顔で話していたのに…と、僕自身信じられずにいたのを覚えています。

    そして亡くなった数週間後、ある職員さんにこんなことを言われたのです。
    「○○さんね、夏祭りしたかったんだって。色んな人に言ってたらしいんだけど、残念よね〜」

    僕はその瞬間、ひどく後悔しました。

    あのおばあちゃんが、色んな人に言っていた?それくらいやりたかったってこと…?

    高齢者の方の人生を楽しくするために介護職はあるべきです。なのに、僕ときたら仕事ばかりで、「人」を全然見れていない…。

    介護職とは何のためにあるのか?おばあちゃんと夏祭りをし、心からの「楽しいねぇ」を引き出すために在るべきじゃなかったのか?

    そう後悔して以降、僕はアルバイトの身ながらイベントに参加し、運営の手伝いをしています。そして1年が経ち、施設史上初の「夏祭り」を開催するに至ったのです。

    介護職は確かに忙しい仕事です。人手が足りず、余裕がなくなる時もあります。

    それでも、そんな時こそおばあちゃんの「できたら良いな」という声を思い出し、イベントなどの楽しいことを実現するよう努めています。

    「できる!」と前向きになれば、皆が笑顔になる…。

    そう信じて、現在大学生の僕は介護職を進路に決めました。これからも笑顔を増やすために、介護の世界で精一杯やっていくつもりです。

    曾祖母に教えてもらったこと

    (岡山県 川瀧 颯夏さん)

     夏休みに、曾祖母の家に泊まりに行きました。曾祖母は、現在九十五歳。深く刻まれたシワこそありますが、肌の色は白く艶々で、腰こそ曲がってはいますが、頭も目も耳もとてもしっかりしています。岡山県と埼玉県で離れて暮らしている為、夏休みや春休みにしか会うことはできませんが、私達五人の曾孫の顔と名前をしっかり覚えてくれています。そして、いつ会ってもニコニコ笑顔で優しく話しかけてくれます。

     曾祖母は普段、大叔母と二人で暮らしています。ひと月に二週間ほど、岡山県に住む祖母が泊まりで行き、身の回りの世話や病院に行く手伝いをしています。一年ほど前までは、祖母の上京する期間が、二、三ヶ月に一回程度、一週間ほどだったことを考えると、どんなに元気そうに見えても、体は確実に年を重ねているのだなと、少し寂しくなります。昨年遊びに行った時には、台所に立つこともあったのに、今年はずっと椅子に座り、支えがないと立ちあがることも、移動することもできなくなっていました。

     曾祖母は、何かしてもらうたびに、「ありがとう。すまないねぇ。」と、手を貸してくれた人、一人一人を真っ直ぐに見て言います。私も、介護の手伝いをさせてもらいました。立ち上がるのを支えるだけでも、力の入れ加減がわからず、うまく支えてあげることができませんでした。そんな私に対してでも、「ありがとう。すまないねぇ。おばあちゃんが、こんなになっちゃったから、みんなに迷惑ばかりかけて…。」と、言います。私は、「全然大丈夫。気にしないで。」と言いながら、すっかり私よりも小さくなってしまった体を抱きしめ、思わず頭をなでてしまいました。幼い頃は、私よりずっと大きく頼れる存在で、頭を撫でてもらうと、とても温かく、何だか誇らしく思えた手も、今では私の手よりも小さくなってしまいました。私は、強く握ると折れてしまいそうな小さな手を両手でそっと握りしめました。

    「毎日学校に行っている間、どうか事故にあいませんように、怪我をしませんようにって、毎日手を合わせてお祈りしてるから、安心して学校に行ってちょうだい。」と、私の手を握り返し、さすりながら言ってくれました。曾祖母は私にお礼を言いますが、私の方が逆にたくさんのことをしてもらっています。私が今こうして元気で笑っていられるのも、今までずっと、両親や祖父母、曾祖母達の優しさや愛情に守られてきたからです。その恩返しを、今私達がしていく番なのだと改めて気付きました。介護とは、手伝いをしてあげているのではなく、手伝いをさせてもらっているのだと思いました。手伝える幸せ、恩返しできる喜びもあることに気付かせてもらえました。介護ではなく、快護。お互いに、快く護り合える幸せを、曾祖母に教えられました。

    「こちらこそ、ありがとう。いつまでもいつまでも、元気でいてね。」心からそう祈りながら、再びそっと両手を握り返しました。

お問い合わせ

  • 第12回 介護作文・フォトコンテスト事務局
  • TEL:03-5843-9754 (平日10:00~17:00)
  • MAIL:info@kaigo-contest2019.jp
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